やりたいことは、なんとなく分かっている。でも、いま辞めるわけにはいかない。家族がいて、毎月の生活があって、周りに自分で事業をしている人もいない。そういう場所に何年も立ったまま動けなかった時期が、僕にもありました。
僕は札幌でバスケットボールスクールを3拠点(真駒内・南3条・新琴似)運営していて、100名の子どもたちと関わっています。バスケ歴は27年。今日は、23歳でバセドウ病を発症してから、13年の会社員生活を経て独立するまでの話です。
23歳でバセドウ病を発症しました
23歳でバセドウ病を発症しました。2度の再発も経験しました。体が思うように動かない苦しさ、見えない不安と戦う日々。病気は、僕に「当たり前は当たり前じゃない」ということを教えてくれました。
最初に「何かおかしい」と感じたのは、大学4年の頃です。きちんと向き合ったのは社会人1年目でした。歩くだけで息が上がる。じっとしていても心拍数が常に100から120。調べて、出てきた名前がバセドウ病でした。正直、最初は自分のことだと思いませんでした。「えっ、男でもなるんですか」。病院でそう聞いたのを覚えています。
その頃、僕は実業団でバスケットを続けていました。もう、バスケットはできないかもしれない。一生、スポーツはできないのかもしれない。正直、絶望しました。
僕は薬を選びました。1日2錠を朝・昼・晩、だいたい1年。派手な闘病ではありません。毎日薬を飲んで、数値を見て、また飲む。その地味な繰り返しの中で、85キロから65キロまで落ちていた体重が、少しずつ戻ってきました。症状の出方も治療の選び方も人によってまったく違うので、これは「こうすればいい」という話ではありません。判断はかならずお医者さんと一緒にしてください。
つらかったのは、そこからでした。「運動してもいいですよ」と言われても、僕の中ではまだバスケットはできないものだと思い込んでいた。夢中になれるものを見つけないとだめになる気がして、ゲームもジョギングもツーリングも読書も試しました。でも、どれもバスケットには変えられなかった。何をやっても、ぽっかり空いた場所が埋まらないんです。
転機は、ひょんなことでした。先輩から「お前、休んで、復帰するんだったら戻ってこいよ」と言われたんです。たったそれだけで、僕はもう一度コートに戻りました。戻った先が3x3でした。5人制にいきなり戻る体力も自信もなかった僕にとって、3対3はちょうどよかった。だから僕は、レジリエンスを「元に戻る力」だとは思っていません。戻れないと分かったあとで、次に立てる場所を探し続ける力。あの時間が僕に教えたのは、そっちのほうでした。
13年の会社員生活は、嫌だったわけではない
その後、13年間の会社員生活を送りました。安定はありました。
物流会社、医療機器メーカー、食品メーカー、商社。仕事をしながら実業団でプレーし、3x3にも挑戦しました。会社へ行き、仕事が終わればバスケットをする。好きなことを続けられていたので、強い不満はありませんでした。起業している人を見れば少し憧れはありましたが、それは別の世界の話でした。
今振り返って思うのは、「勇気がなくて選ばなかった」のとは少し違うということです。そもそも選択肢として見えていなかった。人は、見たことのない生き方を自分の選択肢として考えにくい。自分でスクールを作る、参加費を決める、体育館を借りる、集客する、経理も広報も自分でやる。そういう仕事の形を、僕は具体的に知らなかったんです。選べる未来を増やすのに必要なのは、気合いより先に、別の働き方を見に行くことでした。
心を壊しかけた転職先で、問いが変わった
でも、転職先で心を壊しかけたとき、ふと思ったんです。「自分が本当に残したいものは何だろう」と。
そこまでの僕の問いは、ずっと「どうすればこの場所でうまくやれるか」でした。それが、初めて「何を残したいか」に変わった。問いが変わると、見える景色が変わります。
答えは、子どもたちでした。病気も怪我も挫折も越えてきた自分の経験を、次の世代に渡したい。
思い返せば、小学校の卒業文集に、僕は「教師になりたい、バスケットボールを教えたい」と書いていました。大学で教員免許も取り、教育実習にも行った。でも選手を続けたくて、教師にはならなかった。夢は、そこで一度、引き出しの奥に入っていたんです。
会社員をしながら、時々、単発のクリニックで子どもたちに教える機会がありました。教えた動きを子どもがすぐ試す。できなかったことが少しできる。その反応が、思っていた以上に自分の中に残りました。夢は一直線にかなうものだけではなく、一度離れて、形を変えて戻ってくることがあります。
不安がなくなってから辞めたわけではない
家族の後押しもあり、僕は独立を決めました。不安はありました。それでも、挑戦しないことのほうが怖かった。
ただ、ある朝突然すべてを捨てて始めたわけではありません。スクールを始めたのは、会社員をやりながらの副業からでした。最初の体験会は、誰も来なかったらどうしようと思いながら、一人で体育館の鍵を開けて、電気をつけて、ボールを並べました。都度払いだったので、生徒が一人だけという日もあります。それでも僕は、一人なら一人にしかできない時間をつくると決めていました。その積み重ねの中で、通ってくれる人が少しずつ増えていきました。
そして、不安は消えないままでした。だから僕は、不安がなくなるのを待って辞めたのではなく、何が不安なのかを分けて、準備できるものから準備しました。必要な生活費を出す。継続率を見る。体育館の確保を確認する。家族と話す。僕にとって数字は、夢を諦めるためではなく、無謀な賭けにしないための材料でした。
挑戦は、危険を見ないことではありません。見える危険を具体化して、背負える範囲を決めたうえで進むことです。この感覚は、いま子どもたちに「やってみよう」と言う時にもそのまま使っています。思うようにいかない時期の過ごし方はミニバスで補欠。試合に出られない我が子への声かけにも書きました。
今、バスケ指導は僕の天職です。遠回りに見えたすべてが、今の現場につながっています。
よくある質問
Q. 持病があっても、スポーツを続けられるものでしょうか?
A. 僕の場合は、投薬を続けながら競技に戻り、今も指導の現場に立っています。ただ、これは僕一人の経験です。同じ病名でも状態はまったく違いますし、続けられるかどうかを僕が判断することはできません。僕が言えるのは、「やめる」以外の形が本当に一つもないのかを、主治医と一緒に確かめてみる価値はある、ということだけです。
Q. 独立に踏み切れません。何から始めればいいですか?
A. 僕は、辞める前に「一回だけ試す」を積み重ねました。一回教えてみる。反応を見る。続けたいか確かめる。いきなり扉を開けるのではなく、扉の向こうを何度も見に行く。今の生活を守りながらでも、それはできます。
Q. 好きなことを仕事にすると、嫌いになりませんか?
A. これは僕も一番怖かったところです。実際、コートに立っている時間より、問い合わせの返信や会場探しをしている時間のほうが長い日もあります。好きなことを仕事にするとは、好きな部分だけをやることではありませんでした。
まとめ
病気も、13年の会社員生活も、心を壊しかけた時間も、当時は「遠回り」にしか見えませんでした。でも今の僕を作っているのは、だいたいその時間です。あの経験があるから、怪我をした子に「頑張れ」以外の言葉をかけられる。
そして僕がいちばん伝えたいのは、「みんな独立しましょう」ということではありません。今見えている道だけが、唯一の道とは限らないということです。選択肢は、勇気で選ぶ前に、まず知るところから始まります。
挑戦する子は、環境で決まる。環境をつくるのは、僕たち大人です。
病気や怪我、チーム解散、会社員時代の話も含めて、平日毎朝ポッドキャスト「ONE STEP FORWARD」で話しています。成功だけでなく、失敗や試行錯誤もそのまま話しています。
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